三重県四日市市浜田地区の旧南濱田(現在の中浜田町・南浜田町を中心に浜田町・十七軒町・九の城町・西浜田町などを含む地域)に伝わる舞獅子は、四日市市に鎮座する諏訪神社の祭礼「四日市祭」で奉納された獅子舞のひとつです。4輌あった巨大な山車「大山車(おおやま)」のうちの「浜田大山車」(戦災で焼失)の上と、氏子戸前などで家内安全・商売繁盛などを願って舞いました。 その歴史は延宝年間(1673-1681)まで遡ることができ、現在伝わる諸道具類などから文化年間(1804-1818)頃には現行の形式が整ったと考えられています。
舞は三重県北勢地方に広く分布し、鈴鹿市下箕田の久久志弥神社を源流とする「箕田流」の諸舞を中心に構成され、一方で箕田流には見られない大山車と関係が深い囃子や舞などが受け継がれているところに特徴があります。
この地域最大の祭礼行事である「四日市祭」の神事の中で重要な位置を占めていたことや、四日市の町衆文化のなかで洗練されていった流麗な舞いなどが、華やかだった四日市祭の古例を示すこの地域の貴重な民俗行事であるとして、平成20年7月に四日市市無形民俗文化財に指定されました。ことに、東海地方に見られる車楽(だんじり)系の伝統的な風習を伝える大山車上での所作と、四日市祭が持つ都市風流的な風情を獅子舞でも受け継いだ、正式な舞をパロディー化して祭礼の最後に舞う「道化舞(どうけのまい)」は、この地方の他の獅子舞では見られない貴重なものであり、その伝承が高い評価を受けました。
四日市祭は、諏訪神社の氏子町である、現在の四日市市中部地区を中心にした地域の町衆が、諏訪明神の神徳に感謝し、各町ごとに競って大入道、鯨船、大名行列、富士の巻狩り、からくり山車などの「ねり」を奉納した300年以上の歴史を持つ盛大な祭でした。
しかし、26あった「ねり」の多くが戦災で焼失したことや、戦後始まった市民祭である「大四日市まつり」に、四日市祭の「ねり」が出演するようになり、昭和49年頃から、本来の四日市祭が忘れられてしまうようになりました。現在は「秋の四日市祭」として復興し、10月第一日曜日とその前日の土曜日に執り行われています。
大山車は4輌(西町・北町・浜田・新田)あり、4層構造の巨大な山車で、2層目の前に突き出した部分で獅子が舞われました。四日市祭の最終日には、まず初めに各大山車が神前に桜の造花を捧げ、お祓いを受けます。これを「花納め」と呼び、花納めが終わると、社前で神徳に感謝する舞獅子が奉納され、その後、各町の「ねり」が順に奉納されました。
大山車はすべて戦災で焼失し、舞獅子も途絶えましたが、浜田大山車の舞獅子だけは、浜田舞獅子保存会と南浜田舞獅子保存会によって受け継がれ、現在も祭りの初日に、花納めと舞の奉納を社頭で行なっています。